慶長8年(西暦1603年)、出雲のお国が京都で演じて人気を集めた「かぶき踊」は、その後多くの追随者によって各地で興行されることになります。
江戸時代の初期に製作されたという「歌舞伎図巻」(徳川美術館所蔵)。ここには初期歌舞伎踊の舞台の様子がみごとな色彩で表現されています。
さらに描かれた踊り手たちの手振りや姿が、現在伝えられている「綾子舞」とよく似ているが注目されました。
「歌舞伎図巻」には初期歌舞伎で演じられた5つの踊歌の詞章と、踊が描かれています。
そしてこのなかの二つは、現在も綾子舞によって伝えられています。
そのひとつ「因幡踊」の図には、二人の女性がユライのような被り物をして、扇を手に踊っています。
腰を深く落とした姿や、扇の使い方など、綾子舞との類似点がたくさんあります。
【綾子舞見聞記】(抄)桑山太市(著)
刈羽郡鵜川村、女谷に「綾子舞」といふ室町小謡が残つてゐるといふことがわかり、私は昭和11年に一度調査にかゝつたのである。この時の参考書は「温古の栞」23巻中の記事と「甲子楼文庫」の筆書きの記事によつたのである。
処が「アヤコ」といふ名前のことから、とんだ脇路へ這入つて、結論へ達しないうちに、途中で筆を止めたのである。処で、翌年7月4日松山甕二氏と一緒に鵜川村へ這入つて行き、土地の形勢、風俗人情を親しく見るにつけ、是より先、この年の5月2日、柏崎小学校に於て、新潟県神職会刈羽支部の主催で数番演じられたのである。
中略
聞くところに依ると、同じい女谷でも、下村と高原田とは、現存してゐる踊の数が違ふということである。下村と高原田とは綾子舞の発祥及び演技においても多少異つた意見を持つてゐるといふことである。何はともあれ、下野も高原田も、同じ女谷であればこそ此処に女谷の郷土舞踊、女谷の郷土民謡として指揮者に呼びかけ度いのである。
以下略
- 参考文献
- 出羽・本歌・入羽~綾子舞、21世紀への伝承~